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偶然の恵比寿

恵比寿の弁護士 藥師神 豪祐のブログ

偶然を祝いたい

物々交換って本来難しい。という話を久しぶりにした。

例えば「豚肉を持っている。魚が欲しい。さて。」というセッティング。この場合、プリミティヴな状況下では「①魚を持った②豚肉を欲しがっている人」を探す必要がある。それはいくら何でも非効率で途方も無い。そこでどうしたかというと「市(イチ)」が発生した。交換したい人たちが現実世界でメルカリした。今でも四日市八日市という地名が残されている。これは「毎月四日にここに集まろうね」という約束が土地に張り付いたものだ。とはいえ「市」で集まっても、当然ながら、欲しがっているズバリのものを持っている人に出会うのは大変だ。そこで「まあこれはみんな欲しがるよね」というものと交換するようになった。日本ではそれが稲や布だったと言われている(稲はネの音が「値」として残り、布は紙幣の「幣」として残った。と言われているがそこは本質じゃないし信じてもいない)。その後、それなりの年月をかけて、金や銀、兌換紙幣(「いつでも金に交換しますね」という約束のある紙幣)、不換紙幣となった。お金ってそういうものなんですよね。

でもなんだろうな。物々交換ってロマンがある。偶然を祝いたい。豚肉を持っていることをもっと伝えたいし、魚を欲しがっていることをもっと伝えたい。伝えられたい。

仮説、

人間は世界を更新したいのではなかろうか説。世界を更新するための「分析」と「提言(モデル形成・仮説形成)」のサイクルを、きちんと回さねば。

 

法律家の日々の仕事は「法律論」を駆使して紛争解決や紛争予防のアクションを起こすことにある。ルール自体を変更する「立法論」のテーブルの前に椅子を置くことはほとんどない(ルールの使いにくさや不明瞭さに出会うときは議事堂に想いを馳せる場合もあるが、その想いがええいああと実益をもつ場に居合わせることはほとんどない)。

「法律論」は、定められたルールの中での「分析」と「提言」の試みではある。が、あくまでも目の前の個別の案件に対処する試みにすぎない。「世界を更新する試み」としての「提言」「モデル(仮説)形成」を行うことができるわけではない。原初の根源欲求からは遠そうだ。初心に帰りたい。

少し戻る。私は法律家となるためロースクールに通っていた。先日仕事でS教授のご著書を手に取った際に、ロースクールでの講義の意外なワンシーンが浮かんだ。教授は経済法の講義で、わざわざそれ用のスライドを用意して、「「分析論」にとどまらず「提言論」に踏み込む意義」を強調されたのだ。この瞬間が好きだった。法学部的トピックであるかもしれないが少なくともロースクール的トピックではなかった。だからか記憶がこれを掴んでいる。

追加的に2年遡れば、自分は経済学部ではインセンティブ・デザインの学問であるゲーム理論を専攻していた。そこでは「分析論」から「提言論」への敷衍こそが課題だった。さらに2年遡ると教養学部という場で基礎的な教養をリベラルアーツされていた。「分析論」と「提言論」は教養学部的な文脈では「構造」と「モデル(仮説)形成」という把握で語られているかもしれない。

「構造」を分析する。それを元に「モデル(仮説)」をつくる。モデルにすると、他人に手渡すこともできる。手を加え、現実に適用し、また手を加えることができる。

 

事に当たるに際し「仮説」(モデル)を持つことは重要だ。おそらく不可欠でさえある。仮説に落とし込めば、他人に手渡すことができる。仮説に落とし込めば、他人に任せられる仕事が増える(このことは、nの数を増やすことに勤しむサービス業者にとって本質だ。ソフトウェアのエンジニアと異なり、サービス業では(伝統的な業務にとどまる限り)リーチできる規模に限界がある)。そして勿論、仮説を現実に適用して「次」の一手を打つことができるようになる。

しかし、常に「仮説」とは適切に距離を取る必要がある。いったん「仮説」を立ててしまうと、それを手放すのは難しくなる。「仮説」を否定する事実に遭遇しても、もはやそれを適切に評価することができなくなってしまう。この恐ろしさたるや。「名前を付けて保存」ではなくほぼほぼ「上書き保存」。Love以外もBlindだ。

「仮説」との距離の取り方として自分が10年以上持ち歩いているのはたった一つ。「どのような事実が得られたら自分の仮説は反証されるか」について考えを及ぼすこと(そう、科学的態度の素朴な土台。知性に対する極めてベタな土台)。

人は「見抜いた」「見破った」と考えると、「見抜い」て得た「仮説」を手放せなくなる。これではアンチ知性の極みだ。見抜いたと思わないし見破ったと思わない必要がある。殺されても双子設定を投入して代替可能な専属カメラマンを横に付けるか蝶ネクタイ型変声機を脳内補完し、少なくとも全ての「仮説」に反証可能性を確保し、折を見て反証を検討べきだ。これは冗談ではすまない。

 

耳にする「反知性主義」がどのような定義であるか把握していないためwikiをみた。みると「データやエビデンスよりも肉体感覚やプリミティブな感情を基準に物事を判断すること」とある。どうだろう。何事もバランスで、「反証」と「プリミティブな感情」はいずれも不可欠な両輪だ(とプリミティブな感情は訴える)。プリミティブな感情(原初の感情)には嘘が紛れている可能性が低いので、私はこれを大事にしたい。私が嫌悪する反知性とは、「反証可能性を軽視し自分が望む通りに世界を把握する態度」のことだ。このような反知性とは距離を置きたい。

知性とは「前提とする事実が増えたり減ったりした際に速やかに自分の意見(評価・仮説)を変更できること」なのかなという素朴なモデルは自分の中で10年以上残ってきた。もはや疑わずノータイムで最速で適用して判断を下してしまう。しかし腹をたてるのはよくない。

 

①世界を更新したい欲求は、両輪の一つ。もう片方は、②「穴があったら埋めたい」というスタンプラリー的発想に違いない(ゆえにクライアントのオリジナルな笑顔が報酬です)。と今のところ仮説形成している。

サム

政治的解決。あんまり好きではないやつ。パワーは知性に宿るべきでしょうよそれは。そのために日々研鑽に励んでいる。のに。ほぼほぼ物理。それを持ち出して案件終結。お疲れ様でした。

 

輪郭を縁取ったばかりのマーケットでは、ヤリをもって食糧を奪い合うベタな光景が見られる。サローがみたら「ゼロサム」とニヤついただろう。玉置浩二がみたら「田園」と呟くかもしれない。これに情緒を強調する向きもあるだろうけれど、命の重みを考えると、愛よりも重い祈りがあるはずだ(飛影は言わないだろうけど)。玉置氏や飛影のように「街に弾かれようとも、手を離さなければいい」と思う日もあるが、アートでは足りないこともあるのではないか。それではいつか全てなくなってしまうのではないか。

Amazonプライムで聴けるAmazonミュージックに玉置浩二氏の『CAFE JAPAN』があったので最近よく聴いている。全く色褪せない。シリアスなアルバムなのにこのタイトルとあのジャケットは何なのだろう。小学生の時にも分からなかったが、今に至ってもそれは同じだった。)

ゼロサム社会」と名付けた人もいれば「不可能性」を梃子にする人もいる。かつては「広告都市」氏もいれば、「郵便的」氏みたいな人もいた。とにかく言い換えおじさん達で溢れていたし、溢れている。まずは言い換えおじさんに対する漠然とした不快さを認めよう。しかし最近気づいたのは、この不快さは美的感覚から来るものではなさそうだということ。そんな場合の不快さは例によっておそらく嫉妬だ。定義する実益に乏しい空っぽの単語を生み出して、ひたすら言い換えていきたい。疚しさの痕跡を消しながら。

(と打っている左手が痛い。ここ1ヶ月くらいずっと。手掛かりのように左手が痛い(飛影はそんなこと言わないかな)。湿布を貼っても改善の感覚がない。捻った理由は分かるものの。なぜ改善しないのだろうか。)

ゼロサム社会(または田園)での成功とは、定義からして「他者から奪うこと」に他ならない(2017年とかいう信じがたい年号に至りサムは固定どころか減っているという噂もある)。他者から…奪う…。ゲームの前提条件の魅力は確かに否定できない。「奪い合い」という響き。自分の中の飛影による「望むところです。やりましょう」の反射がもたらされるのは当然だ。きっと原初の気持ち良さにつながっているんだと思う。しかし若くない自分は情緒を強調してばかりもいられない。命には限りがある。Zero to Oneとか真顔で言いたいよそれは。永遠が欲しいよそれは。

(手渡せるものに変えて手渡したい。喜ばれると嬉しい。そのような原初の気持ち良さの永遠は、練りに練った急がば回れでないとたどり着けないだろうよそれは。)

サルトルおじさんも言っていた。人間は①「すでに手にしているもの」のサムではなく、②「まだ手にしていないものやこれから手にし得るものたち」のサムである、と。①で富を確保して②の時間をつくる。GoogleがEvilと距離を取れるのは富があるから。そんなことは当然のこと。

Zero to Oneがどんな書だったかについての記憶は覚束ないが、つらかった記憶は残されている。スタートアップの前提に、「チームで動く」が置かれていた。一人でアートを達成させることができるが、仲間がいないと世界を更新することはできない。そんな当然をピーターティールは述べてぃる。思えば常に悩まされてきたのは「チームで働く」というハードルだった。疾うにアートから脱落してしまったが飛影は残る。ラーメン屋に行くと帰路が残るのと同じ。椿屋四重奏の『ロンサム』を聴きます。

結構多いな、

求めるものは、「気持ち良さ」と「美しさ」、この二つなんじゃないかというのが今の気持ち、32歳が冬に持ち歩きがちなやつ、

「入手した情報を早速使う」、これって気持ち良い、たぶん原初の気持ち良さ、嘘が混じっている可能性が低い気持ち良さ、人生が「入手した情報を使う」の連続であれば楽しい、情報を入手するのは嬉しい、楽しい、そんなわけで多様な人たちと交流するようにしている、どんな誰に対しても各自が持っている独自な価値観ゆえに敬意を払っている、遣うのは敬語、言葉遣いっていうけど、遣うのは敬語?、使うのは敬語?、そんなのも分かる「仲間」にも出会いたい、

反省があるとすれば、人と人とをつなげる気持ち良さで満足し、最近あまり自分自身で若い人の面倒をみたりしなくなった、ので週末は修習生さんへのカウンセリングの予定を二ついれました(Facebookからいきなりメッセくるとおじさん嬉しいです)、仲間増やすと楽しいしみんなハッピー度上がるよね、っていうのだって「ネットワーク外部性」とかいえばたった9文字、結構多いな、

脱線、尊厳をもった各自の独自のオリジナルな価値観をいかに尊重するか、「価値観は多様である」を前提とするならば決まり事は少ない方が良い、のになあ、そういえばSyrup16gの五十嵐さんは「のに」を歌っていると述べていた、だから好き、

最先端の情報練り練りの気持ち良さ、その一方で、「初志を貫徹する」ことの美も維持したい、自分の同一性が保たれなくなる感覚はすごく怖くて、風船ばっか見てる人たちもうgood night、喋る人より動く人の方がかっこいい、「時間」って命そのものだった、配分大事、無限とみなしちゃダメだ、

脱線、本線あるのか、「みなし無限」、酸素の有限性については閉じ込められたエレベータの中以外では考える必要がない、無限にみなせるものや、無限とみなした方が思考経済に資するものは多いけれど、「それ、無限じゃないんだけど」というアレには敏感でいたい、あ、これは「喋る人」だ、「喋る人」よりやる人が好き、美、

81世代の化け物たち、1月は2人の化け物たちと時間を過ごすことが多かった、得るものが多かった、3年後か、ずっと探してた同い年のライバルはまだ見つかっていないものの、目指す先を少し垣間見た感じ、悔しくて昨日も84世代とラーメンを食べ、今日は84世代同業者とランチをして、明日は84世代3人で飲みストリートファイター5をする予定、パッケージビジネスがあります、複製容易になって次は興行ビジネスあります、入場料や物販、ただ単価固定で頭数の掛け算していくのってスケールしないよね、その先は、…、ただまあ50年代半ばのイギリス、60年代のニューヨーク、ハイカルチャーと対比されていたものたちの受容も後で語られればストーリー、キッチュってドイツ語だよ、ドイツも噛んできてるからな、後で語ればなんだって美しい、仲間がいればいいってことなんじゃないのかな、それともいつもの「そう思いたい」にやられているのか、「見抜いた」がもたらす囚われか、

努力の末に自分や家族の身を守ることができると、次は「公平性」が気になり出す、「一度踏み入れるともう前の世界には戻れない」のひとつ、知ってしまったがっかりする本音、と同じ、クチャクチャ音を立てて食べることを嫌悪する気持ち、と同じ、一度踏み入れるともう戻れない、そんなわけで「公平性」確保が気になり出す、土器を作ってた時代には感じなかったであろう囚われ、知る前の自分でいたかった、のに、そういえばあれも、昨深夜のアーセナルバイエルンの結果も、明らかに「知ってしまった」がもたらしたもの、

理想の実現、自己の拡張、自分の価値観で世界を満たそうとするのと変わりがない、デスノートが欲しいと願う精神性と変わりがない、でもそこはもうそれだ、仲間が欲しい、エレカシの「友達がいるのさ」めっちゃいい曲だよねとか、あとあれですよね、「自分とは関係ない」の箱に一回入れられちゃうと辛いよね、とか、人生、

45日目所感

2017年とそれ以前との違いを捉えることができず焦りを感じている、adhocracyを追認するだけでは一日ひとつだけ強くなることは望めない、その日暮らしは美味しくない、そういえば久々にドラマ、『カルテット』に惚れた、主題歌も素晴らしい、

 

経営者としては弊所に所属する者たちの生活を守る必要がある、急がば回れ、最近はチマチマと育んだものたちをアセット化している、アセット化だなんて、陳腐な表現だがまずはこれに取り組んでいる、するとどうだ、手渡せる形にしていくと、少しずつ手を離れていく、「手渡せる形にすると手渡せる」!?!?、そのようにして昨年よりも「時間」を得た、今欲しいのはそれかなあと思ってた、「価値」は当然ながら受け手の評価に宿る、「どれだけ手間がかかった」とか「どういう精神性で取り組んだか」とかそういったものはそのままでは「価値」とは全く関係がない、「こんなに努力したのに」「あなたのためを思って」などという醜悪、ああ醜悪至極也、自分のものさしを無神経に他人にあてている奴もうgood night

手間、込めた精神性、もちろん受け手がそれを望んでいる場合には価値の源泉となる、とはいえそんなセッティングそうそうない、サプライズが「込められた精神性ゆえ喜びをもって迎えられる」なんてことはそもそも限られた場合のみ、送り手と受け手の関係性が極めて親密である場合のみ、それ以外は一か八か(お金・かわいい女の子・美しい演奏・突然集団で行われるかっこいいダンスなんかは成功確率が高い、重要なTips)、他人と関わるなんて一か八か、それホントに分かってんのかな、なんであれ関わると決めたのであれば受け手の価値観をうまく掴む必要がある、これだって言ってみれば、自分がもってるビジネスで考えるのであれば、単に「ペルソナ設定してニーズを理解してチームで共有して云々」みたいなマーケの基礎の基礎、よくいったものだ、共有ありがとうございます、「手渡せる形にすると手渡せる」という発見すごい、謙虚でありたい、開かれていたい、避けたいのは攻撃性、自分が正義の側にあると認識している人の攻撃性はすごい、もっといえば「正しさ」が存在すると思っている人たちの攻撃性、これあれだ18歳くらいに持ち歩くようになったやつ、自分と飲んだことある人みんな聞き飽きてるやつ、自分が正義の側にあるという確信がもたらす攻撃性、「被害者」という地位を得た人たちの攻撃性、未だに例外はみない、自分が正義な奴もうgood night、あとは、「見破った」「気付いた」奴、「見抜いた!」と思っちゃった人は「見抜い」て得た「事実」を「真実」だと考えて手離せなくなる、これは22歳くらいからかな、ずっと言ってる、これにしたって10年経ったのか、例外どこだよ、みんな聞き飽きてる、ごめんなさいね、聞き飽きてる奴もうともだち、

クラウドアトラス、諦めた奴、言い訳する奴、客観が如何ともしがたいときに自分の主観の方を変更して「納得」を調達する奴、それが構造化している奴もうgood night、それを甘やかす奴もうgood night、自分が他人よりメタに立っているという確信がもたらす攻撃性、どうあれ自分は、一日ひとつ強くなりたい、それはもう美醜の感覚、エリートとは?、美、如何ともしがたい「仕組み」にただ文句を言うのではなく、「仕組み」を利用するのがエリートの生き方、というのも22歳くらいのときに思い至ったエリート論、やりたいことがあるんだったら言い訳してんじゃねえよ、という発想、学歴も「仕組み」の一つ、もちろんそれに限られなくて手がかりは「承認」、寂しいしどっちみち承認、「仕組み」自体の当否は措いて現に「仕組み」が「あるっぽいな」と思ったら利用していく、力を蓄えて、仕組みや他人のせいにせず自分で世界を更新する、承認の輪を拡げていく、言い訳をしない、嘘をつかない、言い訳をしない、嘘をつかない、端的に「自己を拡張していく」と気持ち良い、原初の気持ち良さ大事にしたい、それ以外の気持ち良さには嘘が紛れてる可能性が高いから、規模感の問題はあれど態度としてそうありたい、守破離、まず守ってから言えよ、という発想、開かれていたい、「決めつけ」や「思い込み」は例によって攻撃性を育む、どうしようもない、そんな人たちのペルソナを1枚1枚剥ぎ取りたい、あとあれだ、人を巻き込む極意はスピード感なのかなと、これほんと申し訳なくて、いくつか潰れかけてる、やりたいことがあるんだったら言い訳してんじゃねえよ、のんびりしてないでもうちょっとやらないと…

旅路を祝って

日記

※この文章の8割は苦手な長距離移動の新幹線車内で書かれたものである。

 

ILC。国際リニアコライダーをご存知だろうか。分かりやすく世界の最先端。素粒子実験施設。その誘致合戦において一歩リードしている県。そう、岩手県。そんなわけで本年初の旅行先は岩手県となった。タイムフライヤー。そうでない場合もあるものの。

世界にあるのは「事実」と「評価」。ベタな結論。世界は言い尽くされているので仕方ない。とにかく筆は折れてはならない。そうでない場合もあるものの。

なんであれ「結論」(「解答」)だけを言う文章は役に立たない。 求めるべきは「解答」ではなく「解法」。吟味すべきは「解答」ではなく「解法」。「解答」それ単体を手渡されても、どう物差しを当てていいか分かるはずもない。「結論」を言い忘れた文章がアレなのは、「結論」なしは「解法」の不足に他ならないから。「構造」と「モデル」。「分析論」と「提言論」。そうでない場合もある。

「結論」はDoActionにつながるまで全く重要ではない。重要なのは持ち寄った「材料」と「調理のうまさ」。以上。出されたものを美味しいと感じるかマズいと感じるかは、個々の味覚(物差し)がもたらす私的な結論にすぎない。

 

であるからして例えば。「役割を強制的に割り当てて議論をさせる講座」は世界的に流行っている。有用だから。例えばFIFAマスターとなるための講座や、サッカーの指導者向けの講座にも同様の内容があるそうだ。対立した2つの立場にランダムに割り当てられ、本音とは別のところで議論を展開する。ある種の無知のベールを被せられ、「事実」と「評価」を組み合わせた「解法」を吟味していく訓練。使用する「事実」。それの「前提事実」。さらにそれの「前前提事実」。クライマー。

弁護士業務も同様であろう。私たちはあくまでも対立する当事者のいずれかの代理人であるにすぎない。仮に別の立場に就任すれば、別のことを強調していたはずだ(現に相手方代理人がそうしているように)。だからこそ能力の差が結果に反映され得る。もっとも、当然ながら真実の周囲で行う綱引きになるので、行ける場所の幅は限られている。とりあえず集められた証拠と証拠から推認される事実たちを前に、行ける場所を嗅ぎとることになる。そこでの見通しから、事件は「勝ち筋の事件」「負け筋の事件」などと分類されたりする。その上で、堂々と誠実に進めて行く。そこが面白いんだよなあ。

 

前提とする「事実」が増えたり減ったりすれば、不変の物差しをもってしても、「結論」(最終的な「評価」)はいくらでもひっくり返る。意味があるのは解法(「結論」に至る「事実」と「評価」の組み合わせたち)の吟味。これが「批判」と呼ばれるもの。批判とは、何かを否定することではない。事実であれ評価であれ、鵜呑みにせず吟味することをいう。

さて私たちは、岩手県に旅立った。旅において検討すべきなのはやはり「帰路」なのではないかな(結論)。と改めて思った。夜中にラーメンを食べに行くかを検討するときであっても、考えるべきは「帰路」。店を出た後にどんな表情をしているか。どんな気持ちであるか。旅に出るとき、「行ってもいいけど帰路が残るよ」という声を私は掛けたい。掛けてほしい。

 

あらゆるトピックに対して「経験」で返せる人が強い。毅然とした態度の女性は美しい。これまでの仕事で一番大きい仕事は何。「大きい」とは何か。相手方の定義に従った「大き」さで承認を得たい。そう思えたら幸せだ。

 

NIRVANAの『NEVER MIND』の本編ラストを締めくくるのは「何かがひっかかる」。魚は感情がないから食べてもいい。何かがひっかかる。…といったような楽曲。相手よりメタに立った者勝ちゲームをしている者に対して『Somthing in the way』を捧げたい。何度目かの、「気付いている者」であると叫ぶ、啓蒙したがり屋さんたち。「まだお前そこにいるの。こっちに来なよ」と。何度目かのPostシーズン。大いなる物語を疑い小さな神を持っていると突き付けられたポストモダン。FactではなくOpinionが世界を動かしているポストトゥルース。指針の主導権はあなたにある。おめでとうございます。FactとOpinionがイコールであるのは、イデアの水槽から出てきたものだけ。

 

人間が言えるのは、「①仮にこういう事実があったら②それはこういう評価をすべきだよね」ということだけ。そうでない場合はない。前提とした事実に変化があったときに、結論を変更する速度こそが、知性なのかもしれない。これくらい読みにくければ隠せる環。

帰路

行くと帰路が残る。完璧でないことを受け入れると進める。そしてまた帰路が残る。ありました。なんかいい。命だけが大切。2.3年前くらいから毎日ずっと「死」に怯えている。経営者のアスリート性について理解できて楽しい。命を大事に。それが誰のものであっても。とはいえ脳は発狂しない程度に曖昧に絶妙に世界を把握してくれている。食卓でお肉を見ても想像しない。それはつらいな、と疑ったらちゃんと疑えてしまい狭い空間が怖くなった。これを真顔で読めないなら断絶がある。あっち側。命について。時間について。「ある」と信じたいもののうちの幾つかについては「あった」と思えた。というか「あった」。埋めたい穴をたくさん見つけました。あーすごい。あった。ありました。そんな一年でした。