偶然の恵比寿

恵比寿の弁護士 藥師神 豪祐のブログ

PITCH LEVEL

バランスの問題。

当然ながら正解はない(だからこそ。)。当然ながら時間は無限じゃない(だからこそ。)。生命も無限ではない(だからこそ。)。選び直せない(だからこそ。)。だからこそ難しくて、価値がある。誰もがどこかで気がつく素朴なひとまとまりのtips(経済学の教科書の2ページ目にも必ず「稀少性」についての記述がある。価値の源泉についての記述。)。

これもそう、あれもそう。例えば生物は分けても分からない。例えば複雑系。例えばミクロ経済学では足りずマクロ経済学が必要とされる理由。東大の研究室が熱力学第二法則というマクロの基本法則を量子力学というミクロな基本法則から導出することに成功したことが今月7日に発表されたことの意義。「時間の矢」。選び直すことはできない、という意味の有限性。これらは「正解がない」という話すなわち「有限性」の話すなわち「バランス」の話。

といった一連へと回路を誘導したのは、先週から書店に並び始めた、岩政大樹氏が著した単行本『PITCH LEVEL』。ここに全てが詰まっている。「基本書」だ。驚いた。サッカーのピッチ上でも、当然ながら知性こそが役割を果たす。そして同書の中で再頻出と思われる単語は当然ながら「バランス」だ。それ以上の解説は不要。

判断、選択、決定の難しさは「バランスをとるため微調整しなければならないこと」にある(友人のスマホゲームプロデューサーであれば、例えばリリース後の「運営」という難敵と戦っている)。正解はない。有限。あちらを立てればこちらは立たない。だからヒソカは苦悩した。団長か、クラピカか。常に難局だ。だからこそ難しくて価値がある。有限性という恐ろしい前提を受け入れて次に進むのが知性(直近の電ファミのインタビューで堀井雄二氏は勇者についてなんと語っていたか)。選択の連続である人生。選択が更新し続ける並行世界には、今あるすべてを持ち運べる(大統領のD4Cをもってしても唯一無二の「遺体」は運べない…。それに比して、ここには基本世界、「あるべき世界」などない。誰に押し付けられることもない。)。サッカー選手も法律家もバランスで悩む。足し算では決まらないのは料理をすれば分かる。生きれば分かる。財産はなにも運ばない(どれだけ稼いでもゴールには近づかないことを知るのが30代説。)。ゴールデンメソッドを突き刺せば回答が飛び出してくる、わけもなく。その度ごとに鍵を作っていく。「まほうのカギ」くらいはあっても「さいごのカギ」はない。

ああ、それでも。とはいえそれでも。例えば酸素は無限ではないが、「みなし無限」として消去できる。認識して、消去して。認識して、消去して。33歳にもなると消去されず残されたものは少ない。知性に対してだけは誠実に。ヒューリスティックに割るものではない。ワルモノではない。もはや過ぎ去りし時を求めることはできない。

そして今夜アンチェロッティが正当に解任された。

その手段を欠くのであれば、賭郎を設置しなくてはなるまい。

 

 

幽霊たち

初めて読んでからおそらく10年は経過しているが、心の第1位をポール・オースターの『幽霊たち』は譲らない。

自己と他者との隔たりに折り合いがつかなくなり<ブルー>になったときは、<ホワイト>からの「依頼」に立ち返り、「依頼」自体を検証する。誰かに自分を把握していてほしくなれば、<ホワイト>として<ブルー>に依頼をする。自分以外自分でないという孤独に向き合う。自分より大切な存在に出会ってしまう度、当然に孤独は増す。

あの登場人物がドアを開いたシーン。それが私を離さない。

なんであれ、「話せば分かる」とは必ずしも言えないだろうが「話さないと分からない」とは言えそうだ。囚人のジレンマが生じるのも、情報が遮断された囚人だからだ。囚人でないならば、なんであれ表明すべきだ。寄せては返す他人の快楽を、「表明」で一つずつ濁していかないと、善くないことは起こり続ける。客体として固定される必要はない。

『幽霊たち』を超える教養体験はないのでは説。

教養とは何か。「検索窓に放り込むべき単語を空から取り出す能力」や「信頼できる情報源とそうでないものとを識別する能力」を指すとすれば、あまりにも切ない。自分の頭で考える、だとか、知性の束だったりするのかな。自分の頭で考える、とは何か。すべてを剥がされたときに何が言えるか。そこに着目するならば、銭湯へ行くか朝まで一緒に過ごすことで初めて相手の教養を窺い知ることができる。経験からこれを促されることも少なくないし、自分でも何度か実践した。疲れ切った深夜に初めて出会えるものが本質だったりする。今月は神田で二度も各社の代表取締役たちと朝を迎えた。

「疲れているときにいかに実力を発揮できるか」は、ビジネスパーソンやアスリートにとって外せないテーマになっている。ちょうど今日、U-20W杯で敗退してしまったサムライブルーの選手たちに向け内山監督が差し出したコメントも、同様の内容だった。疲れているときの精度。そして誰もがジムに通い始めた。

自分の経験にある興奮と、目の前の人が大事そうに話しているそれとが、結びついたらそこで握手。小さく、根深くやっていくほかない。教養の正体は、端的に「経験」である説。インナーワールドが崩壊した経験は、自分に多大なる教養と知性を宿したと記憶している。もう何年も前。

やりたいことで生きていく。それは音楽だったのだろうか。弁護士だったのか。よく分からなくなっている。その両方の間のどこかにあるのかもしれない。

プロミュージシャンとは何か。音楽でご飯を食べる私がかつて存在した。しかしその私はもはや並行世界に飛ばされ、こればかりは大統領であっても持ち出せない。失われた「聖なる遺体」。ストリーミングに重心が移り、私たちが過ごしていた環境の一切はノスタルジアの箱に入ってもう取り出せない。業界は再編され、新たな立ち回りが要求される。「誰に気に入られるか」が世界を更新しないのであれば、フェアで美しいとは言えそうだ。イイね。

Mac Book Proを買ったのが嬉しくて。

偶然を祝いたい

物々交換って本来難しい。という話を久しぶりにした。

例えば「①豚肉を持っている。②魚が欲しい。さて。」というセッティング。プリミティヴな状況下では「①魚を持った②豚肉を欲しがっている人」を探す必要がある。それはいくら何でも非効率で途方も無い。 そこでどうしたかというと「市(イチ)」が発生した。交換したい人たちが現実世界でメルカリした。今でも四日市八日市という地名が残されている。これは「毎月四日にここに集まろうね」という約束が土地に張り付いたものだ。とはいえ「市」で集まっても、当然ながら、欲しがっているズバリのものを持っている人に出会うのは大変だ。そこで「まあこれはみんな欲しがるよね」というものと交換するようになった。日本ではそれが稲や布だったと言われている(稲はネの音が「値」として残り、布は紙幣の「幣」として残った。と言われているがそこは本質じゃないし信じてもいない)。その後、それなりの年月をかけて、金や銀、兌換紙幣(「いつでも金に交換しますね」という約束のある紙幣)、不換紙幣となった。お金ってそういうもの。触って汚れるようなものではない。

とはいえ、なんだろう。物々交換ってロマンがある。偶然を祝いたい。豚肉を持っていることをもっと伝えたいし、魚を欲しがっていることをもっと伝えたい。伝えられたい。

仮説、

人間は世界を更新したいのではなかろうか説。世界を更新するための「分析」と「提言(モデル形成・仮説形成)」のサイクルを、きちんと回さねば。

 

法律家の日々の仕事は「法律論」を駆使して紛争解決や紛争予防のアクションを起こすことにある。ルール自体を変更する「立法論」のテーブルの前に椅子を置くことはほとんどない(ルールの使いにくさや不明瞭さに出会うときは議事堂に想いを馳せる場合もあるが、その想いがええいああと実益をもつ場に居合わせることはほとんどない)。

「法律論」は、定められたルールの中での「分析」と「提言」の試みではある。が、あくまでも目の前の個別の案件に対処する試みにすぎない。「世界を更新する試み」としての「提言」「モデル(仮説)形成」を行うことができるわけではない。原初の根源欲求からは遠そうだ。初心に帰りたい。

少し戻る。私は法律家となるためロースクールに通っていた。先日仕事でS教授のご著書を手に取った際に、ロースクールでの講義の意外なワンシーンが浮かんだ。教授は経済法の講義で、わざわざそれ用のスライドを用意して、「「分析論」にとどまらず「提言論」に踏み込む意義」を強調されたのだ。この瞬間が好きだった。法学部的トピックであるかもしれないが少なくともロースクール的トピックではなかった。だからか記憶がこれを掴んでいる。

追加的に2年遡れば、自分は経済学部ではインセンティブ・デザインの学問であるゲーム理論を専攻していた。そこでは「分析論」から「提言論」への敷衍こそが課題だった。さらに2年遡ると教養学部という場で基礎的な教養をリベラルアーツされていた。「分析論」と「提言論」は教養学部的な文脈では「構造」と「モデル(仮説)形成」という把握で語られているかもしれない。

「構造」を分析する。それを元に「モデル(仮説)」をつくる。モデルにすると、他人に手渡すこともできる。手を加え、現実に適用し、また手を加えることができる。

 

事に当たるに際し「仮説」(モデル)を持つことは重要だ。おそらく不可欠でさえある。仮説に落とし込めば、他人に手渡すことができる。仮説に落とし込めば、他人に任せられる仕事が増える(このことは、nの数を増やすことに勤しむサービス業者にとって本質だ。ソフトウェアのエンジニアと異なり、サービス業では(伝統的な業務にとどまる限り)リーチできる規模に限界がある)。そして勿論、仮説を現実に適用して「次」の一手を打つことができるようになる。

しかし、常に「仮説」とは適切に距離を取る必要がある。いったん「仮説」を立ててしまうと、それを手放すのは難しくなる。「仮説」を否定する事実に遭遇しても、もはやそれを適切に評価することができなくなってしまう。この恐ろしさたるや。「名前を付けて保存」ではなくほぼほぼ「上書き保存」。Love以外もBlindだ。

「仮説」との距離の取り方として自分が10年以上持ち歩いているのはたった一つ。「どのような事実が得られたら自分の仮説は反証されるか」について考えを及ぼすこと(そう、科学的態度の素朴な土台。知性に対する極めてベタな土台)。

人は「見抜いた」「見破った」と考えると、「見抜い」て得た「仮説」を手放せなくなる。これではアンチ知性の極みだ。見抜いたと思わないし見破ったと思わない必要がある。殺されても双子設定を投入して代替可能な専属カメラマンを横に付けるか蝶ネクタイ型変声機を脳内補完し、少なくとも全ての「仮説」に反証可能性を確保し、折を見て反証を検討べきだ。これは冗談ではすまない。

 

耳にする「反知性主義」がどのような定義であるか把握していないためwikiをみた。みると「データやエビデンスよりも肉体感覚やプリミティブな感情を基準に物事を判断すること」とある。どうだろう。何事もバランスで、「反証」と「プリミティブな感情」はいずれも不可欠な両輪だ(とプリミティブな感情は訴える)。プリミティブな感情(原初の感情)には嘘が紛れている可能性が低いので、私はこれを大事にしたい。私が嫌悪する反知性とは、「反証可能性を軽視し自分が望む通りに世界を把握する態度」のことだ。このような反知性とは距離を置きたい。

知性とは「前提とする事実が増えたり減ったりした際に速やかに自分の意見(評価・仮説)を変更できること」なのかなという素朴なモデルは自分の中で10年以上残ってきた。もはや疑わずノータイムで最速で適用して判断を下してしまう。しかし腹をたてるのはよくない。

 

①世界を更新したい欲求は、両輪の一つ。もう片方は、②「穴があったら埋めたい」というスタンプラリー的発想に違いない(ゆえにクライアントのオリジナルな笑顔が報酬です)。と今のところ仮説形成している。

旅路を祝って

※この文章の8割は苦手な長距離移動の新幹線車内で書かれたものである。

 

ILC。国際リニアコライダーをご存知だろうか。分かりやすく世界の最先端。素粒子実験施設。その誘致合戦において一歩リードしている県。そう、岩手県。そんなわけで本年初の旅行先は岩手県となった。タイムフライヤー。そうでない場合もあるものの。

世界にあるのは「事実」と「評価」。ベタな結論。世界は言い尽くされているので仕方ない。とにかく筆は折れてはならない。そうでない場合もあるものの。

なんであれ「結論」(「解答」)だけを言う文章は役に立たない。 求めるべきは「解答」ではなく「解法」。吟味すべきは「解答」ではなく「解法」。「解答」それ単体を手渡されても、どう物差しを当てていいか分かるはずもない。「結論」を言い忘れた文章がアレなのは、「結論」なしは「解法」の不足に他ならないから。「構造」と「モデル」。「分析論」と「提言論」。そうでない場合もある。

「結論」はDoActionにつながるまで全く重要ではない。重要なのは持ち寄った「材料」と「調理のうまさ」。以上。出されたものを美味しいと感じるかマズいと感じるかは、個々の味覚(物差し)がもたらす私的な結論にすぎない。

 

であるからして例えば。「役割を強制的に割り当てて議論をさせる講座」は世界的に流行っている。有用だから。例えばFIFAマスターとなるための講座や、サッカーの指導者向けの講座にも同様の内容があるそうだ。対立した2つの立場にランダムに割り当てられ、本音とは別のところで議論を展開する。ある種の無知のベールを被せられ、「事実」と「評価」を組み合わせた「解法」を吟味していく訓練。使用する「事実」。それの「前提事実」。さらにそれの「前前提事実」。クライマー。

弁護士業務も同様であろう。私たちはあくまでも対立する当事者のいずれかの代理人であるにすぎない。仮に別の立場に就任すれば、別のことを強調していたはずだ(現に相手方代理人がそうしているように)。だからこそ能力の差が結果に反映され得る。もっとも、当然ながら真実の周囲で行う綱引きになるので、行ける場所の幅は限られている。とりあえず集められた証拠と証拠から推認される事実たちを前に、行ける場所を嗅ぎとることになる。そこでの見通しから、事件は「勝ち筋の事件」「負け筋の事件」などと分類されたりする。その上で、堂々と誠実に進めて行く。そこが面白いんだよなあ。

 

前提とする「事実」が増えたり減ったりすれば、不変の物差しをもってしても、「結論」(最終的な「評価」)はいくらでもひっくり返る。意味があるのは解法(「結論」に至る「事実」と「評価」の組み合わせたち)の吟味。これが「批判」と呼ばれるもの。批判とは、何かを否定することではない。事実であれ評価であれ、鵜呑みにせず吟味することをいう。

さて私たちは、岩手県に旅立った。旅において検討すべきなのはやはり「帰路」なのではないかな(結論)。と改めて思った。夜中にラーメンを食べに行くかを検討するときであっても、考えるべきは「帰路」。店を出た後にどんな表情をしているか。どんな気持ちであるか。旅に出るとき、「行ってもいいけど帰路が残るよ」という声を私は掛けたい。掛けてほしい。

 

あらゆるトピックに対して「経験」で返せる人が強い。毅然とした態度の女性は美しい。これまでの仕事で一番大きい仕事は何。「大きい」とは何か。相手方の定義に従った「大き」さで承認を得たい。そう思えたら幸せだ。

 

NIRVANAの『NEVER MIND』の本編ラストを締めくくるのは「何かがひっかかる」。魚は感情がないから食べてもいい。何かがひっかかる。…といったような楽曲。相手よりメタに立った者勝ちゲームをしている者に対して『Somthing in the way』を捧げたい。何度目かの、「気付いている者」であると叫ぶ、啓蒙したがり屋さんたち。「まだお前そこにいるの。こっちに来なよ」と。何度目かのPostシーズン。大いなる物語を疑い小さな神を持っていると突き付けられたポストモダン。FactではなくOpinionが世界を動かしているポストトゥルース。指針の主導権はあなたにある。おめでとうございます。FactとOpinionがイコールであるのは、イデアの水槽から出てきたものだけ。

 

人間が言えるのは、「①仮にこういう事実があったら②それはこういう評価をすべきだよね」ということだけ。そうでない場合はない。前提とした事実に変化があったときに、結論を変更する速度こそが、知性なのかもしれない。これくらい読みにくければ隠せる環。

帰路

行くと帰路が残る。完璧でないことを受け入れると進める。そしてまた帰路が残る。ありました。なんかいい。命だけが大切。2.3年前くらいから毎日ずっと「死」に怯えている。経営者のアスリート性について理解できて楽しい。命を大事に。それが誰のものであっても。とはいえ脳は発狂しない程度に曖昧に絶妙に世界を把握してくれている。食卓でお肉を見ても想像しない。それはつらいな、と疑ったらちゃんと疑えてしまい狭い空間が怖くなった。これを真顔で読めないなら断絶がある。あっち側。命について。時間について。「ある」と信じたいもののうちの幾つかについては「あった」と思えた。というか「あった」。埋めたい穴をたくさん見つけました。あーすごい。あった。ありました。そんな一年でした。

旗を立てること

ソーシャルデザイン。…来年のテーマにしようかな。大学在籍時に泣きながら数3数Cを勉強しながら専攻していたミクロ経済学のうちのゲーム理論は、インセンティブデザインの学問だった。デザイン。デザイン。

サッカー界で花開いた野心的なデザインといえばドイツによるものが知られている。

ドイツがCLで一勝もできずグループリーグ敗退を喫したのは00年(オランダ・ベルギー共催の大会)の出来事。負けた。どうしよう。…からの大胆なムーブに惚れ惚れしてしまう。「考えること」と「動くこと」が両輪であることは、ペルソナ5がもたらした幾つかあるメッセージのうちの一つでもあるし、ビーストの本にも書いてある需要な経験則(10年ぶりくらいにRPGをプレイした。ペルソナ5は素晴らしかった。素晴らしい。気が乗ってFF15までやりました。こちらも良かったです)。ドイツのサッカー界は、ドイツ中を400近い区域に分けて、1000人程度の指導者を送り込んだ。大胆。ドイツ的。ブンデスの1部2部にユースアカデミーを持つことを義務付けた。そして、どのクラブにも12人のドイツ人がいる。それにとどまらず、6人の地元出身選手がいることになった。

という話は有名であるが、アイスランドが同様に00年から一大プロジェクトを仕込んできたことはあまり知られていない。かもしれない。

アイスランドといえば今年のEUROで大きな達成を果たした。イングランドを撃破しベスト8に残った。会場にヴァイキング・クラップが響き渡った。初出場でベスト8。人口はたったの33万人程度。工夫があり、実践がなされた。評価ではなく、事実を積み上げた。アイスランドは00年からの改革で、指導者全員にライセンス取得を義務付けた。雪でピッチが使い物にならなくなるため、なんとピッチ入りの巨大ドームを国中に建設した。そして16年目に芽吹いた。ちなみにアイスランドは、もう一つの偉業を成し遂げたレスターよりも人口が少ないらしい。

以上が「落とし所に落ちると気持ち良い」パターン。「競争」というコンセプトを元にした穴探しと穴埋め。ピーター・ティールからすればコミュニストのコンセプトだと嗤われる。かもしれない。しかしボルヘスは別のことを言うはずだ。彼は、長大な物語があると仮定し、その要約として小説をしたためている。ボルヘスの文体の美しさは、貫かれた意図の強固さがもたらしているはずだ。「落とし所に落」とす美しさは絶対にある。

ただし、この「落とし所に落ちると気持ち良い」は、両輪の片方にすぎない。『ゆれる』という圧倒的代表作をもつ西川美和氏の著書。『映画にまつわるXについて』という本にこのような記載があった。「初めから落とし所のわかってるものを作るのはつまらない。」ああこれだ。そう思った。これに尽きる、と。ランダムな出会い。ランダムなアサイン。ランダムな紹介。ランダムな握手。その中から確信をもったアサインと、確信をもった握手。確信をもった行動。上記のアイスランドの知識は、サトミキさんの水着入浴シーンが観たくてフジテレビオンデマンドで現在一週間無料で観れる「蹴旅」というサッカー旅番組から得た知識だ。ランダムな出会い。

ある種の共同幻想から自己を解き放つ動き。からの、自分の物差しを確認する動き。ランダムな出会いといえば、この本との出会い自体もそう。Kindleのセール本にこれがあるのを土曜の朝に見つけた。気まぐれに手を出したり、気まぐれに声をかけたりしてみる。ただしいつもの注意が必要だ。「敗北に、論理を付して、合理化すること(いちばんダサいやつ…)」との違いを理解する必要がある。「勝ち」の手応えを得る必要がある。

このコンセプトにはピーター・ティール先生もPalをPayするはずだ。ゴールは常にシンプル。市場の独占。これまでなかった山を見つけて、そこに旗を立てる。そして見下ろす。ふと思い出して本棚に近寄った。俺は山を登るんじゃなくて。頂上にいて。ただそのことを旗を立てて知らせている。あれ、これ。雑誌BRUTUSの07年6月15日号で松本人志さんも同じこと言ってました。頂上に到達済みのアイディアがどこかにあるとかいうロマンス。戸惑うくせに絡みつく花びら。生まれ変わる天使。