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偶然の恵比寿

恵比寿の弁護士 藥師神 豪祐のブログ

サム

政治的解決。あんまり好きではないやつ。パワーは知性に宿るべきでしょうよそれは。そのために日々研鑽に励んでいる。のに。ほぼほぼ物理。それを持ち出して案件終結。お疲れ様でした。

 

輪郭を縁取ったばかりのマーケットでは、ヤリをもって食糧を奪い合うベタな光景が見られる。サローがみたら「ゼロサム」とニヤついただろう。玉置浩二がみたら「田園」と呟くかもしれない。これに情緒を強調する向きもあるだろうけれど、命の重みを考えると、愛よりも重い祈りがあるはずだ(飛影は言わないだろうけど)。玉置氏や飛影のように「街に弾かれようとも、手を離さなければいい」と思う日もあるが、アートでは足りないこともあるのではないか。それではいつか全てなくなってしまうのではないか。

Amazonプライムで聴けるAmazonミュージックに玉置浩二氏の『CAFE JAPAN』があったので最近よく聴いている。全く色褪せない。シリアスなアルバムなのにこのタイトルとあのジャケットは何なのだろう。小学生の時にも分からなかったが、今に至ってもそれは同じだった。)

ゼロサム社会」と名付けた人もいれば「不可能性」を梃子にする人もいる。かつては「広告都市」氏もいれば、「郵便的」氏みたいな人もいた。とにかく言い換えおじさん達で溢れていたし、溢れている。まずは言い換えおじさんに対する漠然とした不快さを認めよう。しかし最近気づいたのは、この不快さは美的感覚から来るものではなさそうだということ。そんな場合の不快さは例によっておそらく嫉妬だ。定義する実益に乏しい空っぽの単語を生み出して、ひたすら言い換えていきたい。疚しさの痕跡を消しながら。

(と打っている左手が痛い。ここ1ヶ月くらいずっと。手掛かりのように左手が痛い(飛影はそんなこと言わないかな)。湿布を貼っても改善の感覚がない。捻った理由は分かるものの。なぜ改善しないのだろうか。)

ゼロサム社会(または田園)での成功とは、定義からして「他者から奪うこと」に他ならない(2017年とかいう信じがたい年号に至りサムは固定どころか減っているという噂もある)。他者から…奪う…。ゲームの前提条件の魅力は確かに否定できない。「奪い合い」という響き。自分の中の飛影による「望むところです。やりましょう」の反射がもたらされるのは当然だ。きっと原初の気持ち良さにつながっているんだと思う。しかし若くない自分は情緒を強調してばかりもいられない。命には限りがある。Zero to Oneとか真顔で言いたいよそれは。永遠が欲しいよそれは。

(手渡せるものに変えて手渡したい。喜ばれると嬉しい。そのような原初の気持ち良さの永遠は、練りに練った急がば回れでないとたどり着けないだろうよそれは。)

サルトルおじさんも言っていた。人間は①「すでに手にしているもの」のサムではなく、②「まだ手にしていないものやこれから手にし得るものたち」のサムである、と。①で富を確保して②の時間をつくる。GoogleがEvilと距離を取れるのは富があるから。そんなことは当然のこと。

Zero to Oneがどんな書だったかについての記憶は覚束ないが、つらかった記憶は残されている。スタートアップの前提に、「チームで動く」が置かれていた。一人でアートを達成させることができるが、仲間がいないと世界を更新することはできない。そんな当然をピーターティールは述べてぃる。思えば常に悩まされてきたのは「チームで働く」というハードルだった。疾うにアートから脱落してしまったが飛影は残る。ラーメン屋に行くと帰路が残るのと同じ。椿屋四重奏の『ロンサム』を聴きます。