偶然の恵比寿

恵比寿の弁護士 藥師神 豪祐のブログ

幽霊たち

初めて読んでからおそらく10年は経過しているが、心の第1位をポール・オースターの『幽霊たち』は譲らない。

自己と他者との隔たりに折り合いがつかなくなり<ブルー>になったときは、<ホワイト>からの「依頼」に立ち返り、「依頼」自体を検証する。誰かに自分を把握していてほしくなれば、<ホワイト>として<ブルー>に依頼をする。自分以外自分でないという孤独に向き合う。自分より大切な存在に出会ってしまう度、当然に孤独は増す。

あの登場人物がドアを開いたシーン。それが私を離さない。

なんであれ、「話せば分かる」とは必ずしも言えないだろうが「話さないと分からない」とは言えそうだ。囚人のジレンマが生じるのも、情報が遮断された囚人だからだ。囚人でないならば、なんであれ表明すべきだ。寄せては返す他人の快楽を、「表明」で一つずつ濁していかないと、善くないことは起こり続ける。客体として固定される必要はない。

『幽霊たち』を超える教養体験はないのでは説。

教養とは何か。「検索窓に放り込むべき単語を空から取り出す能力」や「信頼できる情報源とそうでないものとを識別する能力」を指すとすれば、あまりにも切ない。自分の頭で考える、だとか、知性の束だったりするのかな。自分の頭で考える、とは何か。すべてを剥がされたときに何が言えるか。そこに着目するならば、銭湯へ行くか朝まで一緒に過ごすことで初めて相手の教養を窺い知ることができる。経験からこれを促されることも少なくないし、自分でも何度か実践した。疲れ切った深夜に初めて出会えるものが本質だったりする。今月は神田で二度も各社の代表取締役たちと朝を迎えた。

「疲れているときにいかに実力を発揮できるか」は、ビジネスパーソンやアスリートにとって外せないテーマになっている。ちょうど今日、U-20W杯で敗退してしまったサムライブルーの選手たちに向け内山監督が差し出したコメントも、同様の内容だった。疲れているときの精度。そして誰もがジムに通い始めた。

自分の経験にある興奮と、目の前の人が大事そうに話しているそれとが、結びついたらそこで握手。小さく、根深くやっていくほかない。教養の正体は、端的に「経験」である説。インナーワールドが崩壊した経験は、自分に多大なる教養と知性を宿したと記憶している。もう何年も前。

やりたいことで生きていく。それは音楽だったのだろうか。弁護士だったのか。よく分からなくなっている。その両方の間のどこかにあるのかもしれない。

プロミュージシャンとは何か。音楽でご飯を食べる私がかつて存在した。しかしその私はもはや並行世界に飛ばされ、こればかりは大統領であっても持ち出せない。失われた「聖なる遺体」。ストリーミングに重心が移り、私たちが過ごしていた環境の一切はノスタルジアの箱に入ってもう取り出せない。業界は再編され、新たな立ち回りが要求される。「誰に気に入られるか」が世界を更新しないのであれば、フェアで美しいとは言えそうだ。イイね。

Mac Book Proを買ったのが嬉しくて。