偶然の恵比寿

恵比寿の弁護士 藥師神 豪祐のブログ

どうぶつの重心

今年も締めの月に到達してしまった。スモールトークのトピックも「今年のプロダクト・サービスで素敵だったのは何?」に染まりつつある。

 

年末に至り爆発した「どうぶつタワーバトル」は出色の出来だ。このサービスに送る拍手は惜しまれない。

しばらく(3日間)はそう思っていたが、すっかり萎えてしまった。

私の積み方を横で見ていた仕事仲間が、おかしな名前でその積み方を呼んだことが契機になった。発覚したことは一つ。すでに複数の攻略サイトができており、ネットでは攻略情報が交換されているようだ。戦術やテクニックに名前が与えられ、各どうぶつの重心の位置やどうぶつごとの配置のコツまで紹介するサイトもあるようだ。

すっかり萎え果ててしまった。

 

ふと「ストリートファイター」のトッププロ数人と過ごしていた生活のことが思い出された。当然だ。このゲームも、勝ち続けるためには、「フレームを覚える」「どの攻撃をガードしたらどの反撃が確実に当たるかを覚える」などの(現実世界での物理法則にあたる)「情報」や、経験則に関する「情報」が必須だった。巨人の肩に乗ることが必須だった。彼らはコミュニティを形成し、コミュニティ内で「情報」交換を行なっている(この情報交換が日本選手の強さの秘訣にもなっている)。本当に奥深い。「情報」「練習」「頭脳(人間性能)」といった自らが持てるものを駆使して世界中をツアーで周り戦う彼らは、意外にも素直にカッコいいと思えた。「単なるゲーム」だったものから哲学を引きずり出した先駆者の男は本当に化け物だと思えた。全てを賭けて、それでも勝てない人は、惨めに映る。そんなリスクを背負って実力をつけ必死に生き結果を出している人たちは、きちんと輝いていた。スポーツと呼称することの違和感は今に至るまで拭えないが、魅力的な厳しい世界がそこにはあった。

反面。魅了される反面、私は対戦ゲームに手を出せなくなった。遊び半分では限度があるからだ。一番になれないのであれば、自分にとってはやる意味がない。すべての時期で、自分は「頂点」をとりたいと考えて行動してきた。それはゲームの世界で戦っている人たちのうち結果を出している人たちも同じだった。思えば友人たちのほとんどもそう。日々接している起業家やプロサッカー選手たちを見ていても同様である。多くの人間が「頂点」をとりたくて生きている。私だってそのことは隠せない。

時間は有限。そうであれば取捨する必要が出てくる。情報を集め、動きながら戦略を立て、戦術を練り、できるだけサイコロを振らずに生きるべきだ。「攻略サイトを見て、練習して、情報交換をする」という過程なく「どうぶつタワーバトル」を続けるわけにはいかなかった。それでは真剣に向き合っていることにはならない。限りある命を真剣に生きていることにはならない。ちょっと工夫してサイコロを振っているにすぎない。やるのであれば徹底的に情報を集めるべきだろう。

 

今年は「デュエル・エクス・マキナ」と「ドラクエ・ライバルズ」というスマートフォンのカードゲームを楽しんだ。本当に楽しかったのだけど、同様の理由で心からは楽しめなくなった。駆け引きの中で最善手を選ぶ自信はある。精度を高めていく自信はある。「運」と「頭脳」による勝負であればどこまでものめりこめたと思う。しかし、「30枚ひと揃いのデッキにどのカードをセットしておくべきか」についての最善手は、一定の情報を仕入れなければ辿り着けない。攻略サイトを見ないわけにはいかない。

巨人の肩には積極的に乗るべきだと考えている。「非効率」は徹底的に排除したい。そう生きてきたじゃないか。そうであればやはり攻略サイトを見るべきだろう。しかしそれはできなかった。「読んでそのとおりにデッキを組むこと」に意味や楽しさを感じられなかった。せっかくの美しい作品たちだが、自分には合わなかった。自分にはやるべきことがあるはずだ(そう囁かれたがるのが人間だ。これらのカードゲームも、奥に踏み入れれば圧倒的な魅力があるだろうことを感じながらも)。

(なお、「ストリートファイター」は、これらとは別の理由で私はのめりこめない。中高生だった際、バンド練習の終わりにゲームセンターに寄ることが少なくなかった。そこでは当然、みながスト2(振り返ればおそらくスト3だった可能性が極めて高いが、内輪では「スト2」と呼び続けていた)をプレイした。しかしそれほど上達しなかった私はあることを考えた。「暴力がテーマになっている以上、画面の外で倒すことも許容されるべきだ。外で倒してしまえば画面の中でも負けない」と気が付いたのだ。身体を鍛えると、私のゲーセンでの楽しみは終わった。身長が伸びにくくなったという残滓をいまも私は纏っている。)

 

「こう積むとうまくいきやすい」といった経験則は「情報」の領域。本気で戦うのであれば、「情報」を集めないわけには行かない。どうぶつの重心を感じることは「頭脳」の領域かもしれない。しかしこれも一定程度は「情報」でカバーできてしまう。ああなんということだ。「すでに一定の情報を自分が持っていて」、かつ、「頭脳で楽しめる」ゲームはないだろうか。私はそこでスマートフォンを置いてMac Book Proを開いた。目の前にたくさんあった。ああなんという。なんということだ。仕事が新鮮な気持ちで進むのであった。恵比寿で私は今日もどうぶつの重心を探り当てようと試みるだろう。

ああしかし世界を更新したい。私は隠せない。「どうぶつタワーバトル」をやりながら嫉妬に狂った自分を忘れてはならない。プロダクトやサービスが欠けて「非効率」が発生しているのは、決して不可避なことではない。「非効率」を除去して世界を更新する者は何人も何人も現れている。ありふれた野心は私にも備わっているもので、他の者が見落とした可能性を探り当てることでのみ得られる無形の報酬を得たいと考えている。そういえば、いまや様々な弁護士や法律関係者(東大の白石忠志先生さえも!)も言及するようになったeスポーツ。ちょうど2年前の2015年の夏に「eスポーツが来る」と口走り仲間を集め法律家としてお仕事を生み出してきた。法律家になる前もそうやって生きてきた。私を知ってくれている友人たちがいつも私を照らしてくれる(RPGが好きです)。

次の2年先も頑張らねばなるまい。まずは仲間集めから。健康管理から。