偶然の恵比寿

恵比寿の弁護士 藥師神 豪祐のブログ

仮説、

人間は世界を更新したいのではなかろうか説。世界を更新するための「分析」と「提言(モデル形成・仮説形成)」のサイクルを、きちんと回さねば。

 

法律家の日々の仕事は「法律論」を駆使して紛争解決や紛争予防のアクションを起こすことにある。ルール自体を変更する「立法論」のテーブルの前に椅子を置くことはほとんどない(ルールの使いにくさや不明瞭さに出会うときは議事堂に想いを馳せる場合もあるが、その想いがええいああと実益をもつ場に居合わせることはほとんどない)。

「法律論」は、定められたルールの中での「分析」と「提言」の試みではある。が、あくまでも目の前の個別の案件に対処する試みにすぎない。「世界を更新する試み」としての「提言」「モデル(仮説)形成」を行うことができるわけではない。原初の根源欲求からは遠そうだ。初心に帰りたい。

少し戻る。私は法律家となるためロースクールに通っていた。先日仕事でS教授のご著書を手に取った際に、ロースクールでの講義の意外なワンシーンが浮かんだ。教授は経済法の講義で、わざわざそれ用のスライドを用意して、「「分析論」にとどまらず「提言論」に踏み込む意義」を強調されたのだ。この瞬間が好きだった。法学部的トピックであるかもしれないが少なくともロースクール的トピックではなかった。だからか記憶がこれを掴んでいる。

追加的に2年遡れば、自分は経済学部ではインセンティブ・デザインの学問であるゲーム理論を専攻していた。そこでは「分析論」から「提言論」への敷衍こそが課題だった。さらに2年遡ると教養学部という場で基礎的な教養をリベラルアーツされていた。「分析論」と「提言論」は教養学部的な文脈では「構造」と「モデル(仮説)形成」という把握で語られているかもしれない。

「構造」を分析する。それを元に「モデル(仮説)」をつくる。モデルにすると、他人に手渡すこともできる。手を加え、現実に適用し、また手を加えることができる。

 

事に当たるに際し「仮説」(モデル)を持つことは重要だ。おそらく不可欠でさえある。仮説に落とし込めば、他人に手渡すことができる。仮説に落とし込めば、他人に任せられる仕事が増える(このことは、nの数を増やすことに勤しむサービス業者にとって本質だ。ソフトウェアのエンジニアと異なり、サービス業では(伝統的な業務にとどまる限り)リーチできる規模に限界がある)。そして勿論、仮説を現実に適用して「次」の一手を打つことができるようになる。

しかし、常に「仮説」とは適切に距離を取る必要がある。いったん「仮説」を立ててしまうと、それを手放すのは難しくなる。「仮説」を否定する事実に遭遇しても、もはやそれを適切に評価することができなくなってしまう。この恐ろしさたるや。「名前を付けて保存」ではなくほぼほぼ「上書き保存」。Love以外もBlindだ。

「仮説」との距離の取り方として自分が10年以上持ち歩いているのはたった一つ。「どのような事実が得られたら自分の仮説は反証されるか」について考えを及ぼすこと(そう、科学的態度の素朴な土台。知性に対する極めてベタな土台)。

人は「見抜いた」「見破った」と考えると、「見抜い」て得た「仮説」を手放せなくなる。これではアンチ知性の極みだ。見抜いたと思わないし見破ったと思わない必要がある。殺されても双子設定を投入して代替可能な専属カメラマンを横に付けるか蝶ネクタイ型変声機を脳内補完し、少なくとも全ての「仮説」に反証可能性を確保し、折を見て反証を検討べきだ。これは冗談ではすまない。

 

耳にする「反知性主義」がどのような定義であるか把握していないためwikiをみた。みると「データやエビデンスよりも肉体感覚やプリミティブな感情を基準に物事を判断すること」とある。どうだろう。何事もバランスで、「反証」と「プリミティブな感情」はいずれも不可欠な両輪だ(とプリミティブな感情は訴える)。プリミティブな感情(原初の感情)には嘘が紛れている可能性が低いので、私はこれを大事にしたい。私が嫌悪する反知性とは、「反証可能性を軽視し自分が望む通りに世界を把握する態度」のことだ。このような反知性とは距離を置きたい。

知性とは「前提とする事実が増えたり減ったりした際に速やかに自分の意見(評価・仮説)を変更できること」なのかなという素朴なモデルは自分の中で10年以上残ってきた。もはや疑わずノータイムで最速で適用して判断を下してしまう。しかし腹をたてるのはよくない。

 

①世界を更新したい欲求は、両輪の一つ。もう片方は、②「穴があったら埋めたい」というスタンプラリー的発想に違いない(ゆえにクライアントのオリジナルな笑顔が報酬です)。と今のところ仮説形成している。