偶然の恵比寿

恵比寿の弁護士 藥師神 豪祐のブログ

定義をめぐる冒険

定義をめぐる争い。人類の歴史の中、時代や場所を問わずあらゆるステージで発生し続けた。最も有名で根深い抗争はやはり「ヒップホップ」だろうか。「ラップという手法を使えばヒップホップか。いやお前のそれはヒップホップじゃない。」「イナタイビートに乗せて韻を踏むのがヒップホップか。そんなオールドスクールはもはやヒップホップではない。」そうやって自己表現の文化とともに定義を主張し合い、北米では東海岸と西海岸の争いが加熱した(「池袋ウエストゲートパーク」のドラマはそれをうまく模し、まさかの池袋の東口と西口で抗争を生じさせた)。やがて死者も出た。この争いは未だに続き、フリースタイルダンジョンでも「お前のそれはヒップホップじゃない」という指摘はよく見られる。彼らにとってヒップホップとは生き方それ自体を指す言葉なのでヒートアップするのも無理はない。そして人類の歴史の中、あるときは「フットボール」さえも定義をめぐる争いの場になった。世界最強チームのコンダクターとそのチームメイトがフットボールを定義した。彼や彼を支持する者たちは、その「フットボール」の定義から外れるものを「アンチフットボール」と罵った。最近でいえば「esports」や「プロゲーマー」も同様だろう。「スマートコントラクト」や「リーガルテック」も同様のようだ(最近発売された「リーガルテック」と題された書籍のコレジャナイ感を表明する同業者の多さたるや。私も同感です)。

生き方それ自体を指す言葉であればその定義について大きく意見・反発が出ることは当然だろう。ひとつ願うことがあるとすれば、不毛な時間が減ることだけ。「主張」とは、「事実」に「ロジック」や「価値観」を適用して引き出された「評価」である。まずは前提とする「事実」の認定には注意を払うべきだ。しかしこの「事実」の部分は厄介だ。誰も神の目線など持っちゃいない。専門領域の難しさもあるだろう。そんなわけで前提「事実」に誤りが混入することは往々にしてある(陰謀論や疑心暗鬼で歪められたのではないとしても)。「事実」が現実と本質的な部分で異なれば、これに対する「評価」をいくら叫ぼうと聞く耳を持っちゃくれないだろう。これは誰にとっても意味がない。だとすれば、主張をする前にまずは動き回って「事実」に関する情報を集めるべきだろう。「目的」の段階で食い違っているのか、手持ちの「ロジック」や「価値観」が異なるため採るべきと考える「手段」が食い違うにすぎないのか。

そして「現場」にある「価値観」は大切にしてほしい。私の経験でいえば、私自身も10数年前、池袋西口公園サイファーでヒップホップの定義について争う中にいた(「聞いたぞこいつ東大生。勘違いラッパー超ダセエ。」という2億回くらいされたひねりのない踏み方をされた末に、互いにパクられる覚悟とボコボコにされる覚悟でまったく知らん人らと喧嘩をすることもあった)。実感として感じるのは、少なくともヒップホップでは「現場」「当事者」の持つ力は極めて大きかった。結局、当時「現場」にいた彼らが今も中心にいて、何がヒップホップであるかをヘッズたちに示し続けている。シャビの言葉が世界全体に対する力を持ったのも「現場」にいる超一流選手だったからだ。「現場」にいる当事者として「価値観」を表明することは役割を果たす。その部分こそが彼らの特権。「事実」について的確に把握できていなさそうなとき、まずは単に物差したる「価値観」のみ表明するのも有効だ。

そして欲を言えば、「主張」すべく、気になる情報を自ら集めにいったらいいような。もし何も気にならないなら「お前の定義はわかったよ。でも俺には俺の定義があるから」と「価値観」のみを表明し続けるのがいいのではないか。自分ならそうする。ああでも自分はできる限り自身も世界も更新していきたいなぁ。耳専門の広告モデルと北海道へ。そして冒険を楽しもう。一気に書き下ろしたのであとで修正しよう。。